魚沼地方(魚沼市・南魚沼市・十日町市・小千谷市・魚沼郡)の御朱印




このページでは新潟県の魚沼地方(魚沼市・南魚沼市・十日町市・小千谷市および魚沼郡)の御朱印をご紹介しています。

「雲洞庵の土踏んだか、関興寺の味噌嘗めたか」で知られる、二つの古刹が中心になります。

東京からですと日帰りは少し厳しいかと思います。私は松之山温泉に宿泊しましたが、スキーで有名な湯沢などでも良いかと思います。

目次

関興寺の御朱印 新潟県魚沼市

関興寺は関東管領上杉家、上田長尾家ゆかりの禅寺で、魚沼を代表する禅寺の一つです。

御館の乱の折り、上杉氏寄進の大般若経600巻を味噌桶の中に埋めるよう修行僧に指示し、戦火から経文を守った逸話から「関興寺の味噌舐めたか」と言われるようになりました。

関興寺の御朱印

オリジナル御朱印帳

【関興寺概略】

山号 最上山

宗旨 臨済宗

宗派 円覚寺派(鎌倉瑞鹿山圓覺興聖禪寺末)

本尊 釈迦牟尼仏

開山 覚翁祖伝(上杉氏)

中興年 寛文年間

正式名 最上山関興寺、最上山關興寺

札所 大本山円覚寺百観音霊場第五十一番札所、魚沼観音霊場第二十一番札所

関興寺の歴史(公式HPより)

歴当山は最上山関興寺といい、
宗旨は臨済宗(禅宗)で鎌倉の円覚寺派に属す。本尊は釈迦牟尼佛。

開創は応永17年(1410年)で覚翁祖伝和尚が開基す。
覚翁は上杉憲顕の子。駿河に生まれ、諸方を歴参後、
白崖宝生和尚に参じて嗣法、上山の地に一宇を建て、
白崖和尚を請じて開山とし自らその次位となる。
以来関東管領上杉家菩提寺として法灯は栄え、
二世不蔵和尚の頃上田長尾氏、鎌倉公方足利持氏の帰依厚く、
永享8年(1436年)寺領永楽百二十貫文並びに、
境内山林一里余りの御朱印地を給せらる。
三世在天和尚に至り長尾房景及び上杉房定伽藍を修築し、
幾多の寄進を受け、法道もまた興隆する。
永正9年(1512年)兵火のため諸堂焼失、
翌10年長尾房長僧堂を建立、
天正6年(1578年)上杉氏家督相続争乱(御館の乱)により一山焼土と化す。

天正14年(1586年)上杉景勝諸堂再建旧に復したが、
文禄3年(1594年)祝融の災に遇う。寺運次第に衰退して振わず、
慶長5年(1600年)上杉景勝米沢に移封されるや、
第三十二世東岩和尚これに従い米沢に新たに関興庵を建立した。

寛永6年(1629年)4度目の火災により、寺門の衰退はその極に達した。
寛文年中に米沢の地より現在地(南魚沼市上野)に寺を再興し、
万源和尚(米沢藩主上杉定勝公指南、のちの建長寺185世住持)をむかえ、
末寺嘉祥庵を改め関興寺となした。

その後漸く寺運回復し、徳川幕府より十萬石格別格本山としての格式を受け繁栄、
修行僧は三百人を超え甲信越における臨済宗の一大禅道場としてその名を広めた。
近年では、第五十四世毒狼窟古川堯道老師は円覚寺派管長、
第五十六世雲関窟釋大眉老師は国泰寺派管長にそれぞれ就任されている。

【関興寺写真】

関興寺山門

参詣雑記

長い関越トンネルを抜けて塩沢石打ICで降りて車で少し走ります。

近隣は特に何もないところで、山門前に駐車場があります。

大きな禅寺の佇まいで境内やお寺の中をゆっくり散策できます。

観光客の受け入れに積極的なようで「御朱印」の案内もあり、お願いしやすい環境です。

名物の関興寺味噌の他、お土産品が充実しています。子供のお土産にTシャツも購入しました。

【所在地】

新潟県南魚沼市上野267

関越道塩沢石打IC利用

最上山関興寺公式ページ

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雲洞庵 新潟県南魚沼市

雲洞庵は養老元年創建の古刹で、一時廃れていたが、関東管領の上杉憲実が禅寺として再興し、越後四箇之道場と称されるほど興隆しました。

赤門から参道の下には法華経の一石一字が埋め込まれており、参道を踏みしめてお参りすると大変ご利益があるとされ、「雲洞庵の土踏んだか、関興寺の味噌嘗めたか」と古来から言われています。

雲洞庵の御朱印

オリジナル御朱印帳

雲洞庵の概略

山号: 金城山

院号: 雲洞院

宗派: 曹洞宗

本尊: 釈迦牟尼仏

創建年 :飛鳥時代から奈良時代前期

開山: 藤原先妣尼、藤原房前

開基 :藤原房前

正式名 :金城山雲洞院、金城山雲洞院

雲洞庵の歴史(公式HPより)

今から1300年ほど前の奈良時代、藤原房前公(藤原鎌足の孫)の母君が出家して当地に庵を結び、金城山から湧き出る霊泉で沢山の病人を救いました。

母君亡き後、薬師如来を携えてこの地を訪れた房前公は、母親の菩提を弔う金城山雲洞庵を建立されました。以来、藤原家の尼僧院として律宗に属し、約600年間にわたり特に女人救済の庵寺として大変栄えたのです。

その後、今から600年ほど前の室町時代、関東管領・上杉憲実公が藤原家末裔の因縁で庵をうけ、曹洞宗雲洞護国禅庵を開創し、以降、北陸無双の大禅道場として栄えてきました。

雲洞庵写真

参詣雑記

写真のとおり美しい境内の中、「土踏んだか」と言われる参道を歩いて本堂まで進みます。

お寺の中はとても広く全部を拝観するのにはかなり時間がかかります。

【所在地】

新潟県南魚沼市雲洞660

雲洞庵公式ページ

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八海山尊神社 新潟県南魚沼市

八海山尊神社(はっかいさんそんじんじゃ)は新潟県南魚沼市大崎3746にある神社。

龍鳴の階(りゅうめいのきざはし)で知られる大石段が有名。

八海山尊神社の御朱印

八海山尊神社御朱印

八海山

八海山(はっかいさん)は、新潟県南魚沼市にあり標高は1778m。山頂は岩峰群となっていて、古くから修行の山としても崇められてきた霊山。

登山は鎖場などがいくつもあり、かなり怖いみたいです。軟弱な私としてはとても登ろうとは思いません。

山そのものよりも日本酒の名前としての方が有名かもしれません。

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由緒(公式ホームページより

 八海山のそもそものいわれは、中臣鎌足公が御神託を頂いて御室(おむろ・現六合目)に祠をもうけたのが始まりと伝えられております。

八海山には投行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)、続いて弘法大師が頂上で密法修行されたという事蹟譚があり、古くから両部の霊場として、山麓周辺の修験宗寺院を中心に八海山信仰が展開されてきました。

八海山信仰の歴史上の初見は、南北朝中期に編纂された『神道集』に越後の三の宮・八海大明神とあり、御祭神を元気水徳・国狭槌尊として、霊験あらたかなること、つとに近県にまで及んでいました。

しかしながら時代は遥か降り近世の中期に至るまで八海山は鳴りを潜めるように、その霊威を峻険な山嶺の奥深く胎動させていました。

しかして寛政六年、木曽の御嶽山の大滝口を開いた、かの普寛上人が大神の夢告に導かれて来越し、当村の泰賢(たいけん)行者を随いて八海山登拝道を開くに及び、御嶽山の兄弟山として列格し、次第に全国にその名が知られるようになり、県境を超えて各地の講集団が訪れるようになりました。

大崎口登山道は開山の偉業により一躍輿望を担うに至った泰賢行者自ら、地元大崎村の御嶽講を率いて享和三年(一八〇三年)に切り開いたもので、これが大崎口里宮(現八海山尊神社)を世に知らしめた始まりです。

その後、泰賢行者は大崎口里宮を拠点に諸国を行脚し、八海山信仰の布教に身を棒げました。

こうして八海山尊神社は、八海山信仰の霊場として、その信仰は親から子、子から孫へと代々引き継がれて、今日に至っております。

所在地

新潟県南魚沼市大崎3797  駐車場約80台

(社務所)新潟県南魚沼市大崎4161

祭事

4月20日 春季大祭

10月20日 大火渡祭

祭神

国狭槌尊、天津彦火瓊瓊杵尊、木花咲耶姫尊、大山祇尊、日本武尊

MAP

まずは道沿いにある社務所に向かい御朱印帳を預けての参拝としました。

続いて車で5分ほどの里宮に向かいます。

御朱印

里宮へ行く前に社務所に立ち寄り、御朱印をお願いしてから参拝しました。

普段は参拝⇒御朱印の順番ですが、社務所がちょうど通り道上にあったことと、ご不在の場合に前と後の2回あったほうがリスクヘッジになると考え、先にお願いすることにしました。

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浦佐毘沙門堂 新潟県南魚沼市

坂上田村麻呂が創建したとされる浦佐毘沙門堂の御朱印をご紹介します。

上越新幹線の浦佐駅から徒歩でも行けますので便利です。

浦佐毘沙門堂概略

御由緒(公式ホームページより)

 毘沙門堂は大同二年(807年)平城帝の御代、坂上田村麿将軍が東夷征討のおり、 国家鎮護のため建立し、インドの仏工毘首羯摩作という「本尊毘沙門天王」を奉祀さ れたのが草創と言われております。

承久三年(1221年)鎌倉幕府は、地頭平繁基をして堂領を献じ、道乗坊弁覚を毘沙 門堂別当に任じ、付近一帯を「永代伐木殺生禁断の地」と定めてから、毘沙門堂の御威 徳は顕著となりました。

古文書によれば、永徳二年(1382年)十一月十三日、天王堂(毘沙門堂〉御造栄(営〉 のため田二百苅を藤原清信他7名の武将が寄進しております。 このように室町前期には各地の武将・豪族が競って金幣田地を寄進した事により機運 が盛り上がり、桁行五間・梁間五間・屋根入母屋造・茅葺の壮大な伽藍が建立されたも のと思われます。

慶長八年(1603年)、坂戸城主堀丹後守直寄候が毘沙門領として三十石の寄進があ り、従前の堂領と合わせ五十石を領するに至った。下って慶安年間三代将軍徳川家光 公は従前諸将の寄せられた堂領はことごとくこれを附し、緒役免除の令もあり、御朱印 五拾石・拾万石の格式で遇され、以降歴代将軍の尊信篤く、八代将軍吉宗公の享保年 間より堂宇の修萱は魚沼全郡に公課できる特典を保有し明治維新に至るまで続いており ました。

毘沙門堂が大正六年、国の特別保護建造物に指定されましたが、昭和六年四月、室町 前期の建築と言われた国家的至宝も炎上烏有に帰しました。

直ちに再建に着手、多くの 信者の浄財と労力及び五ケ年の歳月のもと、現在の御堂が完成しました。 設計者は昭和十八年に文化勲章を受賞きれました東大名誉教授伊藤忠太工学博士で あります。

屋根の設計は銅板葺でありましたが、日中戦争の前でもあり軍需物資である 鋼の入手ができず、木羽板葺としましたが戦後雨漏りがはげしく、昭和29年瓦葺とし ましたが、瓦葺も40年余を過ぎるとまた故障もあり、平成九年、信者・信徒等多くの 方々のご協力で当初の設計通り銅板葺の屋根となりました。

毘沙門堂本堂と宝蔵殿の間の廊下には伊藤先生の設計図を展示してあります。

《宝蔵殿》

ここには秘仏毘沙門天王が奉安されております。

古来秘仏の御開帳は住職一代一回と 定められており、近くは平成十年十月四日を開白・十月十日を結願として六十六年ぶり の御開帳を厳惨いたしました。

また、中の璧部分に「仏画十二天」を展示しております。製作年代は不明でありますが、 鎌倉時代に描かれたものではないかと言われております。

名称等

吉祥山多聞院普光寺(浦佐毘沙門堂) 真言宗豊山派

本尊:大日如来

創建:807年(大同2年) 開基:坂上田村麻呂

所在地

新潟県南魚沼市浦佐2495番地

浦佐の観光スポット~楽天たびノート

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浦佐毘沙門堂の写真

車で向かいました。上越新幹線の浦佐駅の近くです。それほど広くはありませんが駐車場があります。

立派な山門です。日光東照宮を模して造られたとのことです。

毘沙門堂まで回廊を歩きます。

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浦佐毘沙門堂の御朱印

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見玉不動尊 新潟県津南町

新潟県津南町にある見玉不動尊は眼病に御利益があるとされ、境内に七段の滝が流れる美しい自然豊かなお寺です。

見玉不動尊の御朱印

見玉不動尊の概略

山号: 見玉山

院号: 正宝院

通称:見玉不動尊

宗派:天台宗

本尊:不動明王

創建:文治二年(1188年)

札所:魚沼三十三観音霊場 第二十五番札所

見玉不動尊の歴史(津南町HPより)

秋山郷の入口見玉にある天台宗のお寺です。

その由来は、文治元年、壇ノ浦の合戦で平家が滅びた翌文治2年、平清盛の家臣宮本清左衛門がお告げによって平家の守護神である不動明王を捧持して見玉村にいたって安置し、自ら初代住職となって正宝院(しょうほういん)が誕生したとされています。

文政5年、伽藍四棟及び平清盛願文を焼失しましたが、本尊・不動明王は火災より難をのがれました。その後再び大正3年に焼失、大正8年に現在の不動堂が再建されました。

本尊不動明王は眼病に特に霊験があり、昔から多くの眼病治癒の逸話が残っています。北方高所の中腹に登る石段70段の上に本堂である不動堂が建ち、石段下の参堂入口に本堂を護持する正宝院と高さ2メートル半の金剛力士の仁王門を構えています。

本堂と参道は老杉巨木におおわれ、本堂へ登る石段に沿う岩石の間を流れ落ちる清水は各所に滝をつくり、境内は真夏でも暑さを感じない自然に恵まれた霊地と言われています。

なお、この寺の本山は比叡山延暦寺です。

見玉不動尊写真

参詣雑記

津南町は関越道から長野県側に一山超えて南下するというかなり行きづらいところにありますが、この見玉不動尊はさらに山の方に車を走らせますので相当遠いです。

十日町から津南町にかけたエリアでは、衛星からの電波が届かないのか、カーナビが効かなくなるところもあり、それだけでも「秘境感」満載ですが、ここはさらに山間に入ることもあり、ここから先は文字通りの「秘境」と言っても良い感じです。

お寺は本堂まで階段を登りますが、その横にかなりの水量の滝が流れています。とても綺麗な水で、清々しい気分になります。

なかなか味わえない感覚ですので、遠いですが訪れる価値のあるお寺かと思います。

御朱印は麓の本坊でいただきました。札所にもなっていますので特に表記はありませんが快く応じていただきました。

宿泊は十日町の松之山温泉 ひなの宿 ちとせを利用しました。松之山温泉は「日本三大薬湯」として知られており、こちらの宿は源泉かけ流しのお湯が楽しめます。

所在地

新潟県中魚沼郡津南町大字秋成9761

見玉不動尊 ~ 津南町HP

津南町の観光スポット ~ 楽天たびノート

石動神社 新潟県小千谷市

石動神社の御朱印

オリジナル御朱印帳

【参拝記】

国道17号線から小千谷市街に入ります。以前は別の場所にあったそうですが地震の影響でこちらに移転したとのこと。さらに社殿も登りは立っていたものの民家のような作りで行き過ぎてしまいました。

社務所には小千谷名産の錦鯉やなぜかウーパールーパーが飼われています。

小千谷市内にある「伊米神社」「魚沼神社」の御朱印もいただけますが、参拝していないのでいただきませんでした。

由緒 公式ホームページより

蘭木村は、「御館の乱」で天正7年(1579)に落城した薭生城の城主・平子氏と家老の廣井茂左衛門・廣井清左衛門(宮司家初代)達により始まったとされる。
「いするぎ様」の御創建は定かではないが、文政13年(1830)2月に京都の神祇管領長上家公文所から「越後國古志郡荷頃村之内蘭木村 廣井左膳 源定吉」に宛てた神拝作法の指示文書が宮司家に現存していることから、それ以前になる。
当神社は、代々奉仕してきた「いするぎ様」と、代々お祀りしてきた内鎮守(稲荷神社・淡島神社・戸隠神社)を大切にとの13代目・義一郎の生前の強い想いを、14代目・嗣雄と15代目・紀余人が受け継ぎ、朝日差し昇る東の方角に薭生城・蘭木村を望む此の地に、平成27年(2015)5月1日に里宮を建て、10月1日に「いするぎ様」より御分霊を迎え、内鎮守を合祀し、祭祀を執り行う事となった。

蘭木村の神様をお祀りしていることから、これからも東山の牛の角突きと錦鯉を通じて地域の発展を願い、日々奉仕してまいります。

※「御館の乱」・・・上杉謙信没後の景勝と景虎の家督争い

【祭神】

少彦名命

鎮座地

新潟県小千谷市大字ひ生乙1380-2

 

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魚沼地方御朱印MAP

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ABOUTこの記事をかいた人

ドライブと温泉が好きな歴史ヲタ。2012年に御朱印と出会ってから旅行の頻度がさらに上がってしまいました。運動不足で体力がほとんどないので車でできるだけ近くまで乗り付けるのをモットーにしています。